ここにお祀りする楠大弁財尊天は、京都市縄手通り三条下がる東入る芳田亀吉氏の信仰されていた弁財天です。
寺伝によると南北両朝時代、新田義貞の軍兵が当寺に駐屯していたとき、足利尊氏軍の攻撃に遭い、全山樹木とも大伽藍は灰燼に帰してしまいました。また、応仁の乱においても、再び雙林寺は焼失してしまいます。
しかし、この楠樹だけは、その二度にもわたる大火災から不思議にも難を逃れました。
その楠樹も、老齢になったため、枯れ死を助け風致を保存するために、昭和2年5月、信仰する有志が、周囲を石垣で囲み、御神木として、この弁財天を安置することにしました。
歴史的な災禍を逃れた長寿幸福の樹齢は、私たちに健康と長寿を与えるとともに、弁財天の豊かなご利益を十方に施していただけることになりました。
その後、鳥居などが取り壊され無残な姿となり、お社だけがひっそりとおまつりされていましたところ、弁財天を信仰する平成有志の方々により再興されることになり、平成16年6月19日(己巳)に新たなご神体が奉安されました。
それに伴い厳かに開眼法要が営まれました。開眼法要というのは、仏さまの魂をお招きし、そのお像に宿っていただく法要のことです。
花月庵出入り口の推敲門をくぐり、左手東側に墓地入り口の石段があります。昔は菊川石材店さんのところに、墓地入り口がありました。知人文人のほとんどの墓は無縁となり、東南角に整理された状態になっています。今でも、故人を偲ぶひとたちがお参りされ、お花がいつも供えられています。
国阿上人、祇園梅本坊、東梅坊、西梅坊の墓所でもあります。有名な知人文人らは次の通りです。
京都盆地の東部に存在する山々、比叡山から稲荷山まで南北およそ12キロにおよぶ36の山々の総称を「東山三十六峰」と呼びます。そのおだやかな形状を「ふとん着て寝たる姿や東山」と詠まれたり、「阿弥陀如来が横たわっているお姿だ」ともいわれています。
北から順に各々の山の名称は次のとおりとなっています。
【比叡山・御生山・赤山・修学院山・葉山・一乗寺山・茶山・瓜生山・北白川山・月待山・如意ヶ嶽・吉田山・紫雲山・善気山・椿ヶ峰・若王子山・南禅寺山・大日山・神明山・粟田山・華頂山・円山・長楽寺山・雙林寺山・東大谷山・高台寺山・霊鷲山・鳥辺山・清水山・清閑寺山・阿弥陀ヶ峰・今熊野山・泉山・恵日山・光明峰・稲荷山】(京都観光Naviより)
雙林寺山とはいうものの、山と言うほどの標高はないように思われ、山頂もどこになるのか不明ですが、かつて雙林寺が大寺院であったことが偲ばれます。
円山音楽堂の西南角にあり、現在「和光同塵」「大雅堂旧址」としるした石碑が建っています。ここは近世画の名手、池大雅(いけのたいが)の死後、その門弟たちによって建てられた大雅堂の旧址です。
池大雅は、享保8年(1723)京都洛北の深泥が池(みどろがいけ)の農家に生まれました。23歳の頃には、八坂神社の境内で参詣人に画扇を売る大道絵師になっていました。時を同じくして境内に百合という女性が茶店を出して、短冊などに歌を書いて売っていたのですが、こちらの方ばかりが繁盛し、大雅の画はさっぱり売れませんでした。
気の毒に思った百合が絵を2、3枚買い求めたところ、あまりにも立派な筆使いに驚き、その才能を見込んで、娘、玉瀾(ぎょくらん)の婿にし、付近の下河原鳥居前(現在の大雲院の周辺と推定される)に住まわせることにしました。その生活を営んだ住まいを葛覃居(かったんきょ)と称します。八畳ばかりの座敷に取り次ぎがあるだけの狭い家でありましたが、狭いながらも楽しい我が家であったようです。子供に恵まれない二人は、大雅が三味線を弾いて唄うと、玉瀾は琴を弾じて合奏し、ともに仲良く楽しんでいたということです。
大雅は、安永5年(1776)54歳で没し、京都西陣の浄光寺に葬られ、妻、玉瀾もその8年後、天明4年(1784)57歳で没しました。
大雅堂は、玉瀾の死後まもなく門弟たちが大雅の遺品を整理し、その資金を元にして旧居に近い雙林寺境内に建てられました。(現在は円山公園です)私設美術館とでもいったところでしょうか。
建物は二階建て、階上、階下とも六畳の広さで、別室に金銅製の観音像が安置されていました。しかしながら、明治36年(1903)惜しまれながら取り壊されてしまいました。
ここに江戸中期の画家池大雅(いけのたいが)を記念する大雅堂があった。
大雅は享保8年(1723)京都に生れ、若くから絵に志し、生れつきの天真らんまんな性格と相まって独自の文人画を大成した。また書も独特の趣(おもむき)がある。妻も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家で、この近くに草庵を結んで夫妻ともに画業にはげんだ。この地はもと雙林寺(そうりんじ)の境内で、住職謙阿もよく大雅の面倒をみ、大雅はここに筵(むしろ)をしいて絵を売ったという。
大雅・玉瀾の没後、門人相まって、木下長嘯子(ちょうちょうし)の歌仙(かせん)堂の遺構を大雅ゆかりのこの地に移して遺品や書画をあつめ、子供のなかった大雅の遺風を伝えるため大雅堂とした。
しかし明治36年公園拡張のため取りこわされ石碑を残すのみとなった。遺品もまた散失したが、大雅堂に安置されていた大雅念持の観音像や「大雅堂」の扁額等は池大雅美術館(西京区松尾)に保存されている。東山区鷲尾町
※現在駒札は設置されていません。また、池大雅美術館は閉館しました。
「真葛が原」とは、現在の円山公園を中心として、北は、知恩院三門前より南は雙林寺におよぶ山麓一帯の旧称です。むかしは、真葛やすすき、茅、萩などが一面に広がる原野でした。鎌倉初期、天台座主慈円僧正がその景観を望んで、
~わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ケ原に風さわぐなり~
と詠いました。
それから、一躍和歌の名所となり多くの歌に詠われることになります。
江戸時代はもっぱら六阿弥など酒食をもてなす水茶屋が設けられ、席貸がはじまりました。併せて六阿弥では、それぞれの庭園美を競い、書画の展観、庭での蹴鞠とさまざまな催し物が開催され賑わいました。
その後、江戸時代の末には、桜の木が植えられ、夜にはかがり火が焚かれ、夜桜見物の花見客でにぎわいました。円山公園中央にある枝垂桜が有名となり、京都の桜の象徴にもいわれるようになったのはこの頃からです。
頼山陽先生の「山陽遺稿」には、「花時には着飾った男女が群がって集まり、飲めや歌えやの大騒ぎをして、挙句の果てには、食いものを所かまわず吐き出したり、忘れものを放置するなど、真葛ヶ原はもっとも盛んな遊興地だ云々」と嘆いておられます。
また、宮川小兵衛政一は、貞亨年間(1684~1687)に知恩院門前に居を構え陶芸の商いを始めます。その後、小兵衛政一から数えて五代目に長造という名工が生まれ、真葛ヶ原に窯を開き真葛焼が始まりました。その四男虎之助が初代真葛香山です。香山は、9歳の頃から、雙林寺で絵と書を学んでいたそうです。
青蓮院さんがある粟田地域には、粟田焼がありますので、この辺りはやきものが盛んだったのかもしれません。
円山公園
明治6年1月15日、太政官の布達により、公園地に指定されました。明治25年度からは第1期拡張および整備事業が開始されました。池を掘り、樹木を植栽し、公園の原形ができあがりました。
そして、第2期拡張工事を経て大正2年、東部一帯の改良工事に着手します。この工事は、平安神宮神苑などを作り出した造園家の小川治兵衛の手によって行われ、最終的に中央に池を配した回遊式の日本庭園となりました。
その後、大正3年3月に現在の円山公園が完成しました。昭和3年、近代的公園施設として安田耕之助などの寄付や雙林寺の上地により音楽堂が建設されましたが、真葛ケ原の環境や雰囲気、東山三十六峰にも数えられている雙林寺山そのものを破壊することになりました。
雙林寺本堂の南向かい側、菊乃井無碍庵さん西隣に「文阿弥」という都林泉名所図絵にも紹介されている雙林寺の塔頭のひとつが平成のはじめまで残っていました。元々は「勝林庵」といい東山の名園と称せられる相阿弥作の庭がありました。庭には鷲尾家より伝わる大梅樹があったそうです。
江戸時代は書院を貸出し、観光遊覧に供して、俳句、書画の会や菊の展覧会など盛んに行われ、雙林寺維持に貢献していたようです。
しかしながら、廃仏毀釈が進む明治3年、京都府に境内地を上地することになり、数々の堂宇が廃滅されましたが、この文阿弥は明治12、3年ごろに朝吹英二氏に売却され「菊渓山荘」となりました。その後、稲垣恒吉氏に譲渡されたのですが、円山公園内に個人の別荘を所有することが認められず、「菊渓倶楽部」という団体名にて維持することにしたとのことです。それからのいきさつはわかりませんが、佛教博物館や円山幼稚園に変わり、建物の改造がなされていきました。その後、少子化に伴い幼稚園は閉園し、一切の建物がなくなり、跡形もなく鉄筋コンクリートの建物に変わってしまいました。
長喜庵は、菊乃井無碍山房さんの東側にあった雙林寺の塔頭のひとつで、東山を借景とした庭園があり、頼山陽、田能村竹田、蛎崎波響など全国の文人が訪れる文化サロン的な場所でした。
この図会には雙林寺塔頭の蔡華院主月峰が描かれています。月峰は豊岡大納言の子でしたが、幼児の頃、長喜庵の謙阿弥の養子となります。8歳の時から池大雅について書画を学びはじめました。このことにより、池大雅没後、池大雅の作品鑑定をするようになります。毎日鑑定を求める人が大勢訪れ、それぞれの作品について鑑定結果を詳しく説明していたようです。
また、月峰は大津の農民の娘、富佐と結婚し、子に清亮、孫に定亮がいます。天保10年11月9日76歳にて没しました。雙林寺墓地に月峰、清亮、定亮の墓があります。
ところで、「菊渓(キクタニ)」の文字も書かれています。これは、東山の高台寺山と東大谷山との間の谷を指し、キクタニギク(別名「アワコガネギク」)が自生していました。その谷間を「菊渓川」が流れており、そこから庭まで水路をひいていたのでしょう。
菊渓川は現在も存在し、山間部では川を確認することができますが、住宅地に至ると暗渠となっています。東山から雙林寺の南側を流れ、建仁寺を通って、疎水に注いでいると思われます。八坂神社南側の地域を下河原町と呼ぶのはその河原があった名残です。
ちなみに、キクタニギクは、2015年京都府レッドデータブックには、絶滅危惧種とされ、菊渓川では絶滅したと記されました。昨今、京都伝統文化の森推進協議会では、東山菊渓にキクタニギクを復活させようと、平成28年度からボランティアの方々と植栽活動が行われています。